事務局・会報・例会
二代

斉藤 一郎
 十周年記念誌を作るので、支部長時代の回想を書けという。

昔のことをベタベタ喋るのは面倒で、すこし憂鬱であるが、記録に止めるのもひとつの役割だと思い定め、書く。

 支部長の仕事をしたのは、坂田さんのあと、昭和37年3月から、昭和39年3月までの2ヶ年であった。

米永さんが坂田さんのときの副支部長なのだし、米永さんにやっていただくのが当然だと思っていたので、私におはちが廻ってきたときは、狼狽もしたし、がっかりもした。

古谷さんとか、竹内さん、松岡さんなどに説得されて、おずおずと引き受けたものの、坂田さん時代の業績をうまく発展できるかどうかを考え、当初ははなはだ気が重かった。

 副支部長には宇野君になってもらった。38年のときの副支部長は二瓶君に引きうけてもらった。このふたりには、えらく御迷惑をかけた。

支部長が調子のいいことばかりを言ったり、やったりするので、副支部長は苦労の連続だったに違いない。

7年後の今でも、頭の上らぬわけで、こんどの大会でパネルデスカッションの企画を引きうけたのも、両君に対するあの頃の償いの意味が多少ともあるといえる。

 最も幸せだったことは、当時の旭川営林局長に甲斐原一郎氏を得たことである。l

甲斐原さんは、私が支部長になる前年の夏に、旭川営林局長となっていた。

あごをつき出し、目をむき、どもり乍ら早口で喋りまくるこの局長は、いろいろな意味で異色であった。

 それまでは、ほとんど局の建物に出入りをしたことがなかった私は、わけても権威のカタマリのような局長室は大の苦手で、文字通り敬遠していたが、甲斐原さんとお話をしてみると、相手が局長という権力者であることをたちまち忘れて、その話題の中にひきずり込まれてしまう。

実に愉快な、独特の理屈がポンポンと飛び出し、それがまた新鮮で、具体的で、共鳴することばかりであった。

それにこの人は、多分にアジテーターとしての才能をお持ちで、私のようなぐうたらが、木青壮のために一生懸命に働き回る仕儀に立ち至ったのも、甲斐原さんの挑戦的な扇動がかなり影響したのではないかと、今でも思っている。

 私が支部長になってしなければならぬことのひとつとして心に決めた『月例会の完全実施』が、まがりなりにも果たすことができたのは、甲斐原さんのおかげである。

タネに困ると『経営学講座』まで開講して甲斐原さんの御好意におすがりした。

本当に感謝にたえない。

 ただ私はこの人に対して、遂に一度も自分の会社の話をすることがなかった。

団体の長にある立場の者が、そのついでに己の企業の陳情をしたりすることについては、当然のこと乍らまことに峻烈に拒否する人であった。

私はこの人から団体の長たる場合の生活態度を教わったような思いがした。

そういう意味で、私にとって甲斐原さんは忘れ得ぬ教師でもあった。

 支部長をひきうけ、まずしなければならぬと考えたことは、組織としてはおそろしく原始的な願望なのだが、次の三点である。

1.事務局の整備

2.会員相互の意思伝達機能の確立

3.月例会制度の完全実施

 他人が見たら嗤うかも知れぬが、私はマジメにこの三つを果たさねばならぬと、思いつめていた。

坂田さんが作りあげた支部造りを、組織として完成することが私の一つの役割だと思った。

事務局・会報・例会という、言うは易く、行なうは難しのサンプルのような仕事を、とにかくひとつひとつ片付けねばならぬと、ひそかに期していた。

 深江さんや佐々木さんとも相談し、昭和37年の三月、つまり私が支部長になると同時に、事務局を林業会館三階の北海道林材新聞旭川支社から一階の旭川地区林産協同組合に移転をした。

真弓さんや高橋さんにお願いし、鈴木専務さんの御諒解を得て、藤瀬君を事務局長に迎えることにも成功した。

それでなくとも多忙な藤瀬君のデスクに、むりやり小さなスチール箱をのせ、組合の入り口に、細長い表札をかけてもらった。

(今もあるこの黒ぬりの細長い標札は、当時私が5条13丁目のなんとかという看板屋に出かけていって注文したものだ。

出来てきたその標札を組合に持っていって、『藤瀬君、これを入り口にかけてくれよ』というと、藤瀬君は、しばらく絶句してそれを眺め、『いや、強引だなア』と感嘆したものである。)

 会報の第1号は、昭和37年4月15日に発刊された。

林材新聞の北田さんの御好意で、上畑君を口説いて編集のチーフとし、金もないくせにぜいたくを言って、局の広報を印刷している大沢基水堂で印刷をすることにした。

題字は電通旭川支局のデザイナーに二種類書いてもらって選んだ。

とにかく、例会に欠席した会員が、この会報さえみてくれれば、会の動向だけはつかめるようにしたい、と念じ乍ら上畑君と二人で印刷屋に二時間も三時間もねばっていたことがあった。

 もしも、木青壮旭川支部に対して私の功績があるとすれば、藤瀬君と上畑君の、二人のすぐれた人材を、わが陣営にひっぱり込んだこと、これにつきる、と私は思う。

 毎年の期末に配布される完璧な出来の総会資料、60号を超え、ますます迅速で充実した会報、いずれのひとつをとってみても、他の支部のそれを完全に圧倒しているばかりか、他の同業団体の中で私たちよりもすぐれた総会資料、会報を持っているところが、どこにあるか、と、敢えて揚言したい。

                                  ★

  と、ちょっぴり胸を張ったところで擱筆する。

「木材青壮年クラブ」が「木材青年経営者協議会」に発展したことの意義などについても、一席ぶちたい気持ちもあるが、それは、私のあとの、二瓶君、岩寺君、宇野君と、三人の支部長がたどった苦心の途を眺めると、おのずから答えがでて来よう。

 再来年には私も卒業である。

残された二ヶ年を、なるべくボス扱いされぬよう、マジメに会の中に没入して勉強していきたいと、思っている。

-44・5・1-