43,44年のこと
五 代

宇野 利一
 坂田、斎藤、二瓶、岩寺各支部長のあとを受継いだ木青協は、先輩のひかれた軌道の上を走るだけの体制が支部に培われていたと言えるだけ幸せだった。

私のリーダーシップの必要性よりも木青協のルールと会員諸兄の意見のまとめを如何に円滑にするかであり、その結果の行動を如何にして、コミュニケーションを徹底して行なうかに課せられていたからである。

それだけ会員の意識の向上と、体質の強化が確立されていたと言って過言ではない。

 しかしこの頃からくすぶっていた林産業の経営基盤の弱体化がはっきりと表面に出て来たし多くの経営不振、倒産の事実が木材業の不況とは別の面で問題にされるようになった。

 国有林、道有林の供給体制の変化に合わせて外材の輸入が素材の流通形体に大きなウエイトを占めその機構の変化を当然強いたし、需要面の変動と共に既存の林産業の体質の改善を迫っていた時期とも言えました。

 40年に設立された製材工業組合が42年4月に農林省令中小企業団体の組織に関する法律第56条の認可を受け具体的に方針を打出し意欲的な事業を展開し始め、また道有林の協同組合共同買受と共に国有林側にも直営直傭拡大問題が起こり木材業界あげてこれに対応した。

 いずれにせよ業界の協業化への移行と合理化による新経営への具体的転換策を打出す何らかの結論を1日もは早くもたねばならない時の変動があった。

 未熟な私はこれらの諸件について木青協としてどう処さねばならないかを会員の諸兄と共に考えようとすることが先ず最初の仕事だったと言えます。

 42年度、最初の定時総会にて特別会員制度が正式に発足し古屋一治、相田時雄、竹内久弥、村上良雄、湯原栄徳、工藤良蔵、渡部俊勝、松岡一隆の各氏を送り出した時はとても残された者として不安でしたがこれらの先輩が今も例会に出席していただき吾々と一緒になって共通の問題としてご意見をいただいていることをみるにつけ木青協の良さを私自身かみしめて居ります。

 運営面については3副支部長をスタップメンバーとして職務分担し企画渉外担当を近藤司氏、例会運営を山田稔氏、会務会計を高谷正氏にお願いして私は専ら会員からの意見の引出役としての司会をつとめることにしました。

 年当初並べた多くの事業計画も半分も消化出来なかったことは残念でしたが、7月の暑い盛りに東大演習林を視察に行った時は、高橋林長御自身で林内を御案内いただき施業方法、伐採、林道など集約化された模範的森林経営を目のあたりに見た感激と地元会員の御協力は今なお忘れられない思い出です。

 層雲峡に泊りがけで行った経営セミナーも私自身意識的にとりあげた企業経営における近代化への方向づけをしたかったと言えます。

それが成功したか否かはともかく同一産業に於いて個々の企業の優劣は避けがたい運命にあるとは言っても少なくとも若手木青協メンバーの中から経営上の欠陥から破綻を招くことだけは避けたいと今でも念頭しています。

 7月林業年次大会が旭川で開催され、木青協メンバーが各部門に於いて積極的に活躍したことはここに記しておかねばならないものの一つでありましょう。

 又この年の後半から若林後援会、国有林の直営直傭拡大問題に対し具体的行動を取るようになりました。

この1年間支部として発行した調査資料も 『桜井木材協同組合視察報告書』 『上川地方製材流通動態報告書』 『退職金制度に関する調査報告書』 『経営診断から見た林産業界の問題点』 『山林事業実態報告書』の数点を数え、いささか資金の捻出に苦労しました。

 43年度には、はからずも再選されましたことは事業計画のやり残しがあったからと反省しておりますがこの年は定時総会に於いて会の名称を北海道木材青年経営者協議会旭川支部と正式に変更いたしました。

 5月に函館に於ける第18回全道会員大会、6月に東京にて第13回全国林材青壮年団体連合会全国大会、7月に参議院選挙、8月に林業年次大会と各月に行事が続きました。

そして6月2日に現職の横瀬局長が死亡されるという悲報を受けました。

2月に函館の局長会議に御出席の際御一緒しただけに人の生命のはかなさを知らされる思いでした。

 7月の参議院選挙に業界がおす若林先生が当選の栄をもつことができましたことが唯一の朗報であり吾々の業界をとりまく環境は刻一刻と厳しさを増していました。

 構造改善事業にせよ、国有林の直営直傭拡大対策問題にせよ快して吾々の前向きの姿勢として取りあげる問題とは言い切れないとは思いつつも好むと好まざるとにかかわらず各月の例会にこれらをとり上げざるを得なかったし、それに終始したと言って過言ではなかったと思います。

 その後国有林の冬山直営生産箇所の増加が発表となり、特別開発事業促進法の適用、さらに3月協同組合に対する一括処分方針の発表が行なわれ、時の流れの中にあって己の非力をさまざまと悟ったこの年こそ私自身に対し大いなる試練の年であったと思っています。