座 談 会 出席者

 二代支部長  斉藤 一郎
 三代支部長  二瓶  守
 四代支部長  岩寺 一之
 五代支部長  宇野 利一
 初代事務局長 北田 芳茂

司会
 現事務局長  藤瀬 寿博
10年の思い出を語る
司会  今日は忙しいところ、お集まりいただきましてありがとうございました。

旭川支部が設立されて今年でちょうど10周年を迎えましたが、第19回全道会員大会が旭川で開かれますことも合わせて10周年記念誌を作成することに決まったわけです。

そこで座談会を企画し、10年の歩みの中からいろいろな思い出など語っていただきたいと思います。

ただここで申し上げておきますが、初代支部長の坂田正一さんが用務のため、また支部設立発起人の一人である松岡一隆さんが東南アジア方面に出向いているため出席を願うことができませんでしたのは残念に思います。

では、まづ岩寺さんから企画のいきさつについてお聞かせ願いたいと思います。

岩寺  いま司会者の話にあった通り10周年を記念しますとともに今後支部が運営されるうえに過去の歩みが一冊のものにまとまっていれば何かとプラスになるということでこの企画が出たわけです。

宇野支部長からお前が編集委員長としてやれといわれまったく知識のうすい私が止むなく引受けたような次第ですので内容を少しでも実のあるものにするため、いろいろ思い出などざっくばらんに語ってもらいたいと思うんです。
 四代支部長  岩寺 一之氏

  昭和6年9月7日生まれ

  岩寺木材産業㈱ 専務取締役

  10周年記念誌 編集委員長

    岩寺支部長のずいそう
司会  設立当初事務局を担当していました北田さんから一つその当時の様子を聞かしてもらいたいのですが・・・。

北田  今から10年前の道木青壮クラブには旭川から会員が松岡さん、斉藤さん、上田さん、松浦さん、小泉さん、豊島さんの6名位しか入会していなかったと思います。

松岡さんがたまたま会長を引き受けられたときに全道的な会員を増やして若いもの同志の親睦をはかっていこうではないかということになって旭川を皮切りに支部をつくってやろうということになり、お前一つ事務局を引受けてやってくれということになりまして私のとこの事務所で松岡さん、斉藤一郎さん、小泉渉さんと4人でどうやって会員を募集していくかなど検討したことが記憶にあるんです。

33年だったと思います。

とにかく会員をふやさんといかんということではっちゃきで集めましたよ。

そのとき発起人はさっきいった人達でこれに竹内久弥さん、米永豊明さん、二瓶さん、宇野利一さん、坂田正一さん、山元康夫さんとか各地区毎に有力なメンバーの加入があってひとり3~4人集めていこうということでスタートしたのが発端ですね。
 初代事務局長  北田 芳茂氏

   北海道林材新聞社 旭川支社
宇野  そうでしたね。

ブロック毎に集めて増強をはかろうという動きでした。
北田  こうして会員の努力が実を結んで34年2月に設立総会を形だけでもやろうということでホテルで第一回総会を開いたわけです。

だから早い話が今日のようにがっちり構想をねってやってた木青壮でなくて親睦をはかろうというばくぜんとした集まりであったと思う。

このとき局の人事課長をしていた東さんが理解もってクラブをバックアップしてくれまして吉村局長にPRしてくれたものですから局長も若いものと語り合おうじゃないかということでずいぶんいろんな面で力添えしてくれましたよ。
司会  当時の会員でいま残っている人は何人くらいいるだろうか。

北田  そうだね。15~16人はいるようです。

二瓶  設立直後はいまのようにきびしい問題ではなくて石谷さんの事とか活躍する問題があったんです。

吉村局長と東人事課長が当時よくめんどうみてくれましたからね。
 三代支部長  二瓶  守氏

  昭和4年2月8日生まれ

  二瓶木材㈱  専務取締役

  二瓶支部長のずいそう
岩寺  僕が加入してまもなくのことというと会員全部が局長室に入って何の陳情でいったのだったかちょっと忘れたんだけど、そのとき二瓶さんがごつい話をしたんだよ。

そのとき二瓶さんの顔をみて実にすごいもののいい方の人だな~という印象が残ったんだね。

蓑田局長のときだったかな。

北田  そのころから木青のいき方が少しづつ変ってきたんだ。

二瓶  あの当時なぜ木青が人気あったかというと今までのイメージをチェンジしたんですよ。

役所に対する業界のつきあいもおそるおそるできたものが木青壮ができたばかりに未熟なことをいっても平気だし、若いものという気持ちでとにかく局長さん、事業部長さん、利用課長さんとフランクに話合っていけるということで人気があがっちゃったんだな。

局長というといままではえらくて雲上の人という感覚だったけどわれわれの支部ができてすっかり身近い感覚に変っちゃったんだ。

中央林業相談所ができたり木青壮も育つ背景があったことも事実ですよ。
北田  そうだった。

このころも石谷先生の運動でスクーターでキャラバンを編成して旗をたてて歩いたこともあった。

白バイにおっかけられたくらいにして・・・。

斉藤  吉村さんは本当にいい人でよくめんどうみてくれましたね。

二瓶  ダンスの好きな人でタンゴなどおどっていたのを思い出すよ。

絵はうまいし申し分ない局長だった。
岩寺  甲斐原さんも斉藤支部長のときだったけど、勉強会などしてよく指導してくれましたよね。

司会  坂田初代支部長のときは組織がためという時代で斉藤支部長のときから本格的な姿に入っていったといえるんじゃないですか。

北田  坂田支部長時代は竹内・米永両氏らがよく活躍してくれたときでしたよ。

斉藤  僕が37年に支部長におされたときに宇野さんに副支部長をしてもらったんです。

坂田さんや米永さん、北田さんらがやってこられたものを引受けて組織がある程度できたから体制をかためようじゃないかとくことで一番最初に事務局を藤瀬氏にくどいて事務局長になってもらって会館の組合内部においたわけです。

そして針葉樹部会とか広葉樹部会をもうけて例会も月に1回はやろうじゃないかとか、会報も出そうとか形の上でかなり固まってきたんです。
 二代支部長  斉藤 一郎氏

  大正14年9月8日生まれ

  斉藤木材㈱  取締役社長

  斉藤支部長のずいそう
宇野  たしかに斉藤さんのときに事務部門の体制はかたまったね。

岩寺  すると結局木青がいまの針葉樹や広葉樹組合の基礎をつくりあげたことになるわけだ?

宇野  そう。そのときの針部会の部会長に二瓶さん、広部会の部会長に米永さんが当っていたんでしたね。

斉藤  あのときは宮越さん(現北林製材取締役)など優秀な方がいてまづ内地送りについて取り組もうじゃないかということで宮越さん、二瓶さん、古川省吾さん、横山健さん、小島利夫さん、これに如沢さん(旭東木材社長)が加わって東京都内を中心とした針製材の流通実態調査に出向いたんでしたね。

二瓶  6人で出向いたんですけれど、まあよくやりましたよ。

あのときは、その結果をパンフレットにまとめてこれが大きな土台になって針葉樹組合が出来まして、このあと間もなく米永氏や竹内氏らの努力で広葉樹組合が発足したんです。

北田  だからこの当時から若い連中が木協あたりがやるべきことも積極的に取組んで活動していたということはいえると思う。

二瓶  たしかにね。

坂田支部長があのファイトで業界の変革にじさを与えて先輩を突き上げたことによって木青壮に対する周囲からの団体認識が出来た。

そこに斉藤二代目支部長がそれを継いで組織的にも事業方針としても一層みがきをかけ、僕が三代目としてそれを継いだわけだけれど今思うと僕のとき一番やったのは宮越さんが終始やってくださった「北海道における製材工業の実態と問題点」という資料だったね。

宮越さんもこの資料は木青壮が仙台での第9回林青連大会に持っていくものだということでたいした苦心と努力を払ってくれて本当に氏の力作ですよ。あれは。

林青連大会に道木青壮が林産工業部門を引きうけたためにこうしたものが必要になったんだが、内容が膨大な立派なものだったんで北海道はすごい!なんて見なおされたりして。

ただ一つ僕に心残りなことがあるんだよ。

というのは出版記念会をよろうと思っていてついやれず宮腰さんに悪いことしたと思っているんです。

斉藤  機会あるごとに僕もあれはよく読んだけれどいろんな資料をよく集めていましたね。

二瓶  あの人は新しいものに意欲的に取組んでいくというタイプでしたから・・・。

斉藤  吉村局長の後に蓑田局長がこられたんだけれどこのときはあまり接する機会もなかった。

このあと甲斐原さんが局長に着任したんだが、ちょうどこのとき会報を発刊することになって創刊号に一筆お願いしたところ、今思えば甲斐原さんは非常に筆のたつ人でしたからいいことを書いてくれたんですよ。

その第一号のときの原稿にものすごく感銘をうけるような格好いいことを書いているんですね。

司会  たしかにあの文は誰しもが興味深く読んだと思いますね。

当時を思い出すうえの参考までに記念誌にその文を掲載したいと考えたくらいです。

斉藤  われわれが最初に局長歓迎会をしたときに"私は個人としてならどんなことでもいいましょう"というような挨拶をされたんですよ。

そこにわれわれが考えていたものとぴたっと一致するものをかんじこれは話せる局長だと思ったんです。

例会には必ず出席してくれたし経営講座なども設けて積極的に支部の充実発展に力になってくれたと思う。

米永氏が例会で発言した歩留まりの問題についても打てばひびく局長で、どんと来いというような人だったから早速ナラ立木の実態調査をやろうということで当時監査官だった渡辺義雄さん(現今金営林署長)らが局長の指示にしたがって名寄営林署管内97林班を会場におおがかりな官民合同の調査をしたわけですが、伐採後は林産試験場にその丸太の試験挽きを依頼したりしてデーターの集計にはずいぶん苦労しました。

とにかく甲斐原さんという人は私達の考えることにいつも胸をかしてくれたためにそうした局長の姿勢を中心に支部の拡張など飛躍には大きいプラスになりました。

だからそれがいいかわるいかは別として局の方針なども木協に対してなどより木青の例会で発表するのが早い位だったんでないだろうか。

甲斐原さん自身も若いわれわれと接することを楽しみにしておられたんじゃないかな。

僕も支部長をおおせつかっていて経営講座などの機会に恵まれたり、今思っても自分は幸せものと思っているんです。

北田  斉藤さんも本当によくやりぬいて偉大な基礎をきづいたですよね。

今日の姿までくるのに当時の動きというものは大きな土台になっていますよ。

宇野  本部に役員会制度ができたのも斉藤さんの時代で労務を旭川が担当ということで宮崎博昭さんらが支部長を中心に問題にとりくみ、結果をいまみてみても製材技能士が実現したように効果が実ったということで思い切った活動ができたんですね。

北田  そうですね。

旭川の動きが他の地区にもかなり刺激したようですね。

斉藤  僕は2年留任しないで二瓶君あたりにバトンタッチをしたかったのだけれど、にげるににげれずにもう一年ということでさせられてしまった。

39年4月から二瓶君にタッチしたんだけどその前本部に僕が行ったときに次期支部長は誰になるんだというわけだ。

いや二瓶君だといったら"二瓶君か"とみんないうんだよ。

どうしてかというと二瓶君はどっちかというと野党の党首の如く行動派でしょ。

だから他の地区の支部長らも二瓶氏にやりまくられるという恐怖感があったんだな。きっと。  (笑)

二瓶  僕の時代には斉藤さんが一つの路線をひいておいてくれましたので楽でしたね。

宮越さんがまた針組合の副理事長という立場でよくバックアップしてくれましたし、ついで勉強しようという形がこのころには完全に確立されたように思うんです。

支部の運営の基本的な考え方として「将来の木材企業のあり方」といったビジョンを求めようじゃないかなどとやりました。

39年から40年にかけては国内経済界は不振に転じて営林局も赤字ということがいわれ、基本的に国有林がそんなバカなことはないとよく議論したもんだった。

40年は4月27日に総会をしたんだけど旭川で全道大会をやったことから会員ももり上がったんですよ。

このあと僕と岩寺さんが道木青壮のソ連林業視察に参加したわけですが・・・。

岩寺  あのときは各支部2名以上の割り当てで、はじめは松岡さんや宇野さんらだいぶん参加者がいたんだけど次第にぬけて二瓶支部長から副支部長の岩寺氏が参加せんきゃだめだと一発やられていくことにしたんでした。

思いきっていってきてよかったと思っている。

ちょうどむこうにいっているとき石谷さんの選挙で結果は次点という電報が入って一行シュンとしちゃったものでしたっけ。

斉藤  支部長らの留守中、竹内久弥さんらに一生懸命やってもらったけど結果的にこりゃえらいことになったと思ったね。あのときは。

二瓶  僕のときはかってない不況に突入したということで今までのような甘いものではいかんと外材も入荷がふえ一つの大変革がくるというようなかんじがそろそろわかりかけてきたころなんだな。

需要はふえていくのに国有林あたりの供給は思うように併行しないし自分らの手で長期見通しに立ったものを見い出していかんとならんとね。

とにかく先の展望に対するきびしさはあった。

北田  木青から木協の役員に入れるとかいう話が出たのはいつごろだったろうか。

岩寺  それは僕のときから入れておいたほうが具合がいいんじゃないかということになったんだけど予算はいつごろからついたんだろう?

二瓶  予算は僕のとき浅野会長に話してとりあげてもらったんです。

「北海道における製材工業の実態と問題点」を作製したときはじめて5万円もらったのがはしりです。

司会  岩寺さんのときからはじめて支部の予算にそれが組まれたわけでその前に二瓶さんがいったような形でもらったんですね。

まあ斉藤さんの基礎から二瓶さんにタッチされて対外部団体に対するそのへんは妙味もあり、またスムースにいったといえると思います。

岩寺さんが二瓶さんのあとをついだんですが・・・。

岩寺  僕は先輩の宇野氏がいるのになんで支部長など重責にかつがれんといかんかとだいぶんごんぼをほっていたところ、JCの関係で宇野氏がそちらにひっぱり出されては困るとクレームがついてそれじゃ誰にするとなって副支部長が支部長になれと話が出ちゃった。

僕はそんなガンクビでないし気の弱い青年だからといったのだが、二瓶氏のようなあとにまたそういう人が出てくるのも味があっていいじゃないかということで、そこまでいわれるなら男として引き受けてやってみようかという気になってうけたというのが本心でした。

斉藤さん、二瓶さんで足場が出来ているから1年間惰性ですごしてしまったように思う。

一番大きなプラスになったのは山河局長が共同組合の育成と共同精神の高揚という問題で勉強会をもって1~2回やり、3~4回とすすもうと思ったんだけどたまたま全国大会が札幌で開かれるということで全精力がそっちにむかっていったんです。

そのとき斉藤さんが大会の準備委員長で梨田さんが大会委員長、二瓶さんが総務委員長をバックアップして盛りあげるためにも支部会員全員でそこに傾注した1年でしたから例会をもって勉強するという機会がうすらいでしまったのは事実だったと思うんです。

司会  年次大会に木青壮が一席ぶたされるという年とともに格調高い組織に発展してきたように思うんですが、斉藤さん、二瓶さん、宇野さんらが今までに一通りやりましたね。

岩寺  木青が年次大会で本格的に一席ぶつようになったのは僕が支部長をしていて梨田さんが全道会長になって寒住法の問題が引きつぎできているのをなんとか実らせようと努力したわけだ。

二瓶  需要拡大というのは言葉をふりかえたんだけど斉藤さんが黒田林産試験場長にしさされたんですよ。

木材を節約するというような法があってはいかんと。

その後斉藤支部長が全道会長になり、全道的に取り上げる問題はこれだということで需要拡大を僕が支部長で帯広大会(会場釧路)のときとりあげたんです。

岩寺  そのときは確か41年だった。

梨田会長で需要拡大委員長が二瓶さんだったからばりっとその問題もかたまってきたんですよ。

二瓶  とにかくうまくいったのは斉藤さんが40年に針葉樹のレポートをつくったんだ。

つまり規格の問題と寒住法の木材節約にしするという条文をはずそうとこの二点について釧路大会でパネルディスカッションをやったんですよ。

建築の立場から道の建築課長、林産行政から林産課長、提案者側から僕と三人でパネラーをやったのを記憶している。

岩寺  全国大会をやるのにあんなにひどいもんだとは考えられなかった。

旭川支部も10人位が1週間前から札幌に泊まりこみで準備に当ったんだから。

”すみれホテル”にかんづめさ。

斉藤  いや本当によくやったね。

岩寺  夜もほとんどでなかったですよ。

斉藤さんと二瓶さんががっちり光りをきかしてくれているもんだから。(大笑い)

斉藤  いや申し訳ありませんでした。本当に。

二瓶  僕はあんまりきつくいわんかったはずだ。

帯広支部が”二瓶さん、あんたの方はうまくいってる。”というんだ。

むこうは佐野さんと千葉さんと2人でやるもんだから大変さ。

北田  旭川は本当によく調和がとれていると思うよ。

お世辞でもなんでもない本当のところ。

斉藤  だから僕達は幸せだと思うんです。

僕の性格の中にないものを二瓶さんが、二瓶さんにないものを岩寺さん、そこにないものを宇野さんという具合自分でこういうとおかしいけれど人材が豊富につづいてきたもんだから、こういう面ではスムースに歩んでこれたと思う。
 五代支部長  宇野 利一氏

  昭和6年2月5日生まれ

  宇野木工場  専務取締役

  宇野支部長のずいそう
宇野  斉藤さんの人材論じゃないけど旭川はいろいろな面で恵まれていますよね。

だから歴代2年づつやってきたのは恒例じゃないんですけれど一つの業績というのは2年位かかるだろうということでいい傾向と僕もみてきたんです。

しかし岩寺君が1年でにげることにはレジスタンスをかんじてむしろ後継者育成に非難的話を彼にした位なんです。

ところがこんどはどうしてもやれということで僕があとをやむなく引きうけたんです。

ということはこのころ懸案事項がずいぶん沢山ありまして大きいものとしては直営直傭の問題が前の年から出てきたこと。

北見はすでに運動をはじめようとしているとき旭川が同じような状況下にありながら支部として具体的に動いていなかったというむづかしい時期だったので、僕が引受けるにも不安があった。

この大問題にどう取組むかで幸い斉藤さんがいらしたから先輩の意見を聞いてまづ実態調査をしなくてはいけないということから山林事業の実態調査をしたわけですが、企業のダイレクト的な調査をしたという意味で成功だったと思います。

むこうも大義名分をもっているだけにわれわれも世論を喚起せんといかんということで斉藤さんの指導よろしきを得てうまくいったんですけれど、とにかくPRの効果はありましたね。

斉藤  42年の旭川の年次大会のときも支部はずいぶん木協のために働きましたよね。

運営の一切を担当して・・・。

宇野  斉藤さんがシナリオを書いてやったんです。

僕が司会して斉藤さんが運営委員長、二瓶さんが副委員長でそれに岩寺さん、山田稔さん、近藤さんらが中心になって来賓紹介とかなんとかいろんなことをやったね。

岩寺  話は前後するけど僕の支部長時代に古屋一治さんが市議に立候補するといういきさつがあったんです。

会員の古屋さんだから全面的にバックアップしようということで近藤君を中心にやってもらったんだ。

斉藤  彼がこまかい神経をつかってよく努力して会員への浸透もはかって頑張ってくれました。

特筆すべきことです。これは。

宇野  42年の事業を思いうかべると直営直傭にからんだわれわれの認識と今後の対策が大きなテーマでしたね。

事務的には各支部長に担当部門をもってもらった。

例えば例会、会務、渉外の三部門に分け分業制を採用して支部長がなまくらできる体制をまづとったということで機構的には変えたことになるかと思います。

また事業の内味としては政治的な動き方をしていくと木協と必ず摩擦を生じやすいという考えから企業の勉強会的要素をとり入れることに努力してみました。

東大の山部演習林をみにいくということで林木育種については視察的な方向に目をむけたり、平常の問題については商工指導センターの松山さんらにお願いして経営分析を行ない場崎林材新聞社長には「当世林材界の七不思議」と題するスピーチを願い、このほか面白い勉強が出来たと思っています。

それから岩寺支部長のとき大阪で林青連の大会があってその折に奈良の桜井協同組合を見学にいきましたね。

あれが非常によい行事だったので山河局長がまだ在任でもあったし6月の例会に私のときにこの問題について専門的に研究しなおそうということで反省会をやり、僕のとき肉づけしたが基礎づくりをしてくれたのは岩寺君のときでした。

いまになって協同組合の一括処分問題が出てきたことに対してあのとき勉強しておいたのがある程度よかったということになるように思われるんですが・・・。

斉藤  43年になって名称も変わったんですね。

宇野  そうそう、クラブは親睦団体的にとられがちだと、経営者協議会という内容に入ろうということでしたね。

司 会

 現事務局長 藤瀬 寿博

昭和4年生まれ

旭川地区木材林産協同組合
司会  いろいろ草分け時代から今日までの思い出話などを中心に語ってもらいましたが、これからの協議会のいくべき姿勢について全道会長になった二瓶さんから一つ・・・。

二瓶  僕は当面する問題点として個条的にあげると、

    1.北海道林産工業の未来像の追及
     イ.木材工業の配置構造
     ロ.協業化の調査研究
     ハ.変化する原料供給形態への対策

    2.木材需要拡大
     イ.寒地木造プレハブ住宅の研究
     ロ.住みよい木造住宅のPR
     ハ.流通機構の調査研究

    3.労務対策の推進
     イ.林業技術者の養成
     ロ.林業共済制度の調査研究
     ハ.労務環境の整備

の各項について今後協議会として取組んでいきたいと考えていますし、このほか創立20周年記念に当ってアメリカ視察、会員拡大の組織強化、国内先進地の視察などを実施したいと思っています。

さらにまた10年後の北海道林産業の位置ということも当然われわれ若いものがしんけんに取組んでいくべき問題であり、その未来像ということで今年の会員大会では「10年後の林産業を語る」というテーマのもとに若人らしいみのりのある形にもっていきたいと考えている。

司会  今日のみなさんのお話はこれからの木青の歩みのうえにいろいろな面で参考になり、指針になると思います。

大変貴重な話をありがとうございました。
  
と き:昭和44年 4月 25日
ところ:旭川林業会館役員室